「見守る」ことの難しさ

保育園が上映会をやってくれ、映画『さぁ のはらへいこう』を観た。鎌倉で自主保育を営むグループの活動記録で、「鎌倉の里山が育てた子どもたちの記録映画」という帯がついている。私は何かでこの映画の存在を知っており、ちょっと楽しみにしていた。

で、感想はと言えば「こどもたちってすごい!」「これをやる親もえらい!」が妥当なところ。……自分でもちょっと棘のある表現だと思うが、これが率直な意見だと思っている。

映画に出てくるような環境で生きられる子どもたちは本当に幸せだと思うし、幼少時にこうした体験をしておくことは、身体能力の発達ばかりでなく、情操教育の面でも大いにプラスになると思う。この点については、おおいに評価されるべきだ。

でも、何やら奥歯に物がつまったような書き方をしているのは、やはり、ほとんどすべてのことを子どもたちの能力や可能性に任せていることに、抵抗感があるからだ。

この映画に出てくる子どもたちは、親や保育者から干渉されない。ケンカをしても子どもたちの間で解決が図られ、親はひたすら見守るのみ。ケンカならば、いい。でも、それがちょっとエスカレートして、いじめになったら?

「たくと君」が「いっちゃん」とケンカをし、お互い服をつかんでやりあう。それを見ていた周りの子は、無責任に「いっちゃん、がんばれ!」と一方の肩をもつ。彼らの加担にこのケンカの是非を明らかにする正当な理由はない。そうして孤立無援となった「たくと君」は、みんなから囃し立てられ、仲間にも入れてもらえない。

場所を変えても、仲間外れはまだ続く。たくと君が悪いわけではない。ただなんとなく、場の雰囲気が彼にとって不利益な状況になってきてしまっただけ。その状況に軽く乗っている周りの子たちは、当然のように彼を仲間外れにする。

そうしてたくと君は、ようやく泣きながら訴えた。
「どうして僕だけ仲間外れにするの?」
「僕も仲間に入れてよ」
「なんでいつも僕だけ……」。

私は、いや私だけでなく、映画を見ている他のママたちも、息をすることも忘れて画面に見入った。

やがて、しばらくたくと君の涙の訴えを見ていたいっちゃんが「ごめん」と口にした。それに次いで、他の子たちも「ごめんね」「こっち来ていいよ」などと謝った。

……このシーンを見ると、子どもたちの力ってすごい、とか、子どもは問題を解決する力を備えているとかいう賞賛の声が挙がるんだけど、私の感覚はちょっと違う。これを単純な賛美論にしてしまってはいけないと、内なる声が警鐘を鳴らしていた。なぜか。

それは、問われるまでもなく、彼らは善悪が「判断」できる存在ではないからだ。子どもたちが謝ったのは、いじめられた男の子が泣いて訴えたからで、自らの行いを反省したからではない。「たくと君」が泣く姿に後ろめたいものを感じて、謝った。それは「感じた」ことであり、自分が「判断した」ことではない。だから、危ういと思うのだ。

もちろん、感じることができればそれで十分ではある。ある一定の範囲の中では。でもこの子たちがもう1、2年してこの青空保育を飛び出し、幼稚園や小学校という小社会に出ざるを得なくなったとき、周りは「感じられる」子たちばかりではない。そのとき、たくと君を救えるのは何なんだろう。

かつて大学院生の頃、キャンプリーダーをやっていたことがある。小学生を対象に、飯ごう炊爨や富士登山などを実施した。子どもたちを前にしたリーダーの役割は、基本を教えたら見守ることだった。テントも、1本ペグを打って見せたら、あとは子どもたちにやらせる。最後にしっかり地面に埋まっているか確認はするが、基本は彼らにやらせる。

富士登山も、もちろん子どもたちは自分の足で歩く。頂上まで行ける子もいれば、7合目でタイムアウトになる子もいる。登れない子は、それで構わない。かなりの放任スタイルだったように思う。それでも、要所ではチラリと口を出したりする。

親から離れて解放されると、やはり気分ものびやかになる。言いたいこともずけずけ言うし、羽目を外しがちになる。当然、いじめのようなことも起こる。

私が担当した女の子たちは、4年生くらいだっただろうか。あるとき、何やら軽い口論が聞こえた。女の子が2対1で言い合っており、私が見たときには、1人になった子が、くるっと後ろを向いて去って行ったところだった。私には、逃げて行ったように見えた。勝ち誇ったような顔をしている女の子たちに向かって、私は「どうしたの?」とは聞かない。「○○ちゃんたち、ちょっと手伝ってくれる?」と一緒に手を動かした。

そしてひとしきり作業が終わった後、「△△ちゃん(去って行った子)、どうしたかな」とだけ、言ったと思う。それでその場を離れて見ていると、2人組の女の子は顔を見合わせてちょっと言葉を交わした後、テントを離れて行った。その姿を見て、彼女たちが先に逃げた女の子を探しに行ったことを確信した。

見守るって、こういうことじゃないのか。

別に、そのときの自分の態度を評価したいわけではない。たまたま、たいして口を挟まなくても良かっただけだ。でも、子どもたちが「正しい」方向に歩めるよう、傍で支えてやるのが、大人の役割じゃないか。それは決して、見ているだけや、子どもの自主性に任せているだけのことではない。あるポイントでは、軌道修正してやることだって必要なのだ。

小学生は、言えば分かる。自分の頭で、考えることができる。彼女たちは考えて、判断して、友達を迎えに行った。でも3歳児はどうか。もちろん3歳児だって考える。何が良いか悪いかは、わかる。でもその判断は、目の前のことでなされる。いじめられた子がどんなに悔しくて泣きたい気持ちでも、彼が笑っていれば良かったことだと思ってしまう。そこに善悪の思考判断はない。

映画でいじめられた男の子は、泣いた。泣いて訴えることができた。だからいじめた形になった子たちも、謝ることができた。でももし、男の子が陰で泣いていたり、ひたすら耐えてしまう子だったら?

彼らは、謝らなかっただろう。そして男の子を傷つけたことさえも、忘れてしまうのだ。忘れた方は、それでも構わない。大きくなる段階で「いじめることは悪いこと」という認識ができれば、きちんと育っていく。でもいじめられた方は?その心の傷が、癒えなかったら?

お友達と一緒に何かするのが嫌になってしまうかもしれない。抗議することも、ずっとできないままかもしれない。そうなってしまう前に軽く声をかけてあげるのが、その場にいる大人の役目ではないのだろうか。それは決して、「余計なひと言」ではないと思う。

これは、非常に難しい。信頼関係で成り立っている自主保育では、どこまでだったら声をかけて、どこまでだったら見守るなどというルールはない。あったとしても、実際はそんなの守れないかもしれないし。

でも、だから子どもたちを、彼らの可能性を信じて放っておくというんだったら、私はやっぱり賛成できない。私の考え方は過干渉ではないと思うんだけど、どうかなあ。答えは出ないし、きっと教育に答えなんてないだろう。それだけに、この映画を「ああ、よかった」だけで済ませてしまってはいけないと思うのだ。

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No title

ここの活動って幼稚園なんて・・・ってところなんですよね!
幼稚園がいかに悪い?!か書かれた張り紙が公園にありました!
自然と共に活動しているのでとっても活発な子に育ちますよね♪

Re: No title

そうなんですか?青空教育で生きる基礎をしっかり身に着けさせた後、それぞれ喜んで幼稚園に送り出すんだと思ってましたが……。
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好きな本は「赤毛のアン」「精霊の守人」「西の魔女が死んだ」などなど。新しいkindred spiritsと出会えるのを楽しみにしています。

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